19世紀(1801-1900)Publications

番号 194
西暦 1801/ 5/ 27
和暦 (享和 1 4 15)
震央・M N35.3° E140.1°
記事 上総:久留里城の塀など破損、民家の潰れるもの多かった。江戸で有感。

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番号 195
西暦 1802/ 11/ 18
和暦 (享和 2 10 23)
震央・M N35.2° E136.5° (M6.5~7)
記事 畿内・名古屋:奈良春日の石灯篭かなり倒れ、名古屋で本町御門西の土居の松倒れ、高壁崩れる。彦根・京都で有感。やや深い地震か?

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番号 196
西暦 1802/ 12/ 9
和暦 (享和 2 11 15)
震央・M N37.8° E138.35° (M6.5~7)
記事 佐渡:巳刻の地震で微小被害、未刻の地震は大きく、佐渡3郡全体で焼失328、潰家732、死19。島の西南海岸が最大2m強隆起した。鶴岡で強く感じ、米沢・江戸・日光・高山・秋田・弘前で有感。

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番号 197
西暦 1804/ 7/ 10
和暦 (文化 1 6 4)
震央・M N39.05° E139.95° M7.0
記事 羽前・羽後:『象潟地震』:5月より付近で鳴動があった。被害は全体で潰家5千以上、死500以上。象潟湖が隆起して乾陸あるいは沼となった。余震が多かった。象潟・酒田などに津波の記事がある。

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番号 198
西暦 1810/ 9/ 25
和暦 (文化 7 8 27)
震央・M N39.9° E139.9° M6.5
記事 羽後:男鹿半島の東半分5月頃より鳴動し、7月中旬から地震が頻発、27日に大地震。寒風山を中心に被害があり、全潰1003、死57。秋田で強く感じ、角館・大館・鯵ヶ沢・弘前・鶴岡で有感。

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番号 199
西暦 1811/ 1/ 27
和暦 (文化 8 1 3)
記事 三宅島:噴火活動による地震。山崩れ・地割れを生じた。

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番号 200
西暦 1812/ 4/ 21
和暦 (文化 9 3 10)
震央・M N33.5° E133.5°
記事 土佐:高知で土蔵壁落ち、瓦落下、塀の損所があった。中村の方が強かったともいう。

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番号 201
西暦 1812/ 12/ 7
和暦 (文化 9 11 4)
震央・M N35.45° E139.65° M6¼
記事 武蔵・相模:江戸で小被害があった。最戸村(現横浜市港南区)で潰家22。その他神奈川・川崎・保土ヶ谷に潰家や死者があった。

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番号 202
西暦 1815/ 3/ 1
和暦 (文化 12 1 21)
震央・M N36.4° E136.5° (M6)
記事 加賀小松:小松城の破損多く、岐阜県白鳥町の悲願寺で香炉が落ちた。金沢で強かった。

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番号 203
西暦 1817/ 12/ 12
和暦 (文化 14 11 5)
震央・M N35.20° E139.05° (M6)
記事 箱根:箱根で落石、江戸で幕府書物方の蔵に小被害。秩父・甲府・八王子で有感。

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番号 204
西暦 1819/ 8/ 2
和暦 (文政 2 6 12)
震央・M N35.2° E136.3° M7¼
記事 伊勢・美濃・近江:近江八幡で潰家82、死5。木曽川下流では香取(多度町)で40軒全滅、金廻では海寿寺潰れ圧死70。名古屋・犬山・四日市・京都などのほか、金沢・敦賀・出石・大和郡山などでも被害。

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番号 205
西暦 1821/ 9/ 12
和暦 (文政 4 8 16)
記事 津軽・青森・八戸:青森で小店の屋根落ち、子供1人死亡。八戸で城などに被害。

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番号 206
西暦 1821/ 12/ 13
和暦 (文政 4 11 19)
震央・M N37.45° E139.6° (M5.5~6)
記事 岩代:大沼郡大石組の狭い範囲に強震。130軒壊れ、破損300余軒、死若干。上下動が強く、山崩れがあった。翌年1月4日、さらに強い地震があった。

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番号 207
西暦 1823/ 9/ 29
和暦 (文政 6 8 25)
震央・M N40.0° E141.1° (M5¾~6)
記事 陸中岩手山:山崩れあり、西根八ヶ村に被害、潰家105など。岩手山の北30kmにある七時雨山も崩れ、死69、不明4。

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番号 208
西暦 1826/ 8/ 28
和暦 (文政 9 7 25)
震央・M N36.2° E137.25° (M6)
記事 飛騨大野郡:地裂け、石垣崩れる。土蔵の壁土落ち、石塔・石灯篭が倒れた。

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番号 209
西暦 1828/ 5/ 26
和暦 (文政 11 4 13)
震央・M N32.6° E129.9° (M6)
記事 長崎:出島の周壁が数ヶ所潰裂。天草で激しかったという。天草の海中で噴火に似た現象があったという。

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番号 210
西暦 1828/ 12/ 18
和暦 (文政 11 11 12)
震央・M N37.6° E138.9° M6.9
記事 越後:激震地域は信濃川流域の平地。三条・見付・今町・与板などで被害が大きかった。武者によると全体で全潰9808、焼失1204、死1443であるが、実際はもっと多かったらしい。地割れから水や砂の噴出がみられたり、流砂現象がみられた。

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番号 211
西暦 1830/ 8/ 19
和暦 (天保 1 7 2)
震央・M N35.1°deg; E135.6° M6.5
記事 京都および隣国:洛中洛外の土蔵はほとんど被害を受けたが、民家の倒潰はほとんどなかった。御所・二条城などで被害。京都での死280。上下動が強く、余震が非常に多かった。

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番号 212
西暦 1831/ 11/ 14
和暦 (天保 2 10 11)
震央・M N33.2° E130.3° (M6.1)
記事 肥前:佐賀城の石垣崩れ、侍屋敷・町郷に破損多く、潰家もあった。

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番号 213
西暦 1832/ 3/ 15
和暦 (天保 3 2 13)
震央・M N40.7° E141.6° (M6½)
記事 八戸:土蔵の破損が多かった。南宗寺・本寿寺の石碑所々痛む。

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番号 214
西暦 1833/ 5/ 27
和暦 (天保 4 4 9)
震央・M N35.5° E136.6° (M6¼)
記事 美濃西部:大垣北方の村々で山崩れ多く、死者30余という。余震が多く、8月まで続く。震源は根尾谷断層に近い。

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番号 215
西暦 1833/ 12/ 7
和暦 (天保 4 10 26)
震央・M N38.9° E139.25° M7½
記事 羽前・羽後・越後・佐渡:庄内地方で特に被害が大きく、潰家475、死42。津波が本庄から新潟に至る海岸と佐渡を襲い、能登で大破流出家約345、死約100。[2]

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番号 216
西暦 1834/ 2/ 9
和暦 (天保 5 1 1)
震央・M N43.3° E141.4° (M6.4)
記事 石狩:地割れ、泥噴出。アイヌの家23潰れる。その他、会所などに被害。

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番号 217
西暦 1835/ 3/ 12
和暦 (天保 6 2 14)
震央・M N35.1° E132.6° (M5½)
記事 石見:島根県高畑村で石地蔵・石塔・墓石などが倒れ、蔵の壁が破れ、石垣が崩れた。

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番号 218
西暦 1835/ 7/ 20
和暦 (天保 6 6 25)
震央・M N38.5° E142.5° (M7)
記事 仙台:仙台城で石垣崩れ、藩内で被害。岩手県藤沢町で石垣崩れ、蔵の壁を損じた。津波があったとされるが、疑問もある。[2]

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番号 219
西暦 1836/ 3/ 31
和暦 (天保 7 2 15)
震央・M N34.4° E139.2° (M5~6)
記事 伊豆新島:神社・寺の石垣崩れる。江戸で有感。2月末まで地震続く。

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番号 220
西暦 1839/ 5/ 1
和暦 (天保 10 3 18)
震央・M (M7)
記事 釧路・厚岸:国泰寺門前の石灯篭大破、戸障子破損。津軽で強く感じた。

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番号 221
西暦 1841/ 4/ 22
和暦 (天保 12 3 2)
震央・M N35.0° E138.5° (M6¼)
記事 駿河:駿府城の石垣崩れ、久能山東照宮の堂・門など破損。江尻・清水辺で家や蔵の壁が落ち、地裂け、水吹き出す。三保の松原の砂地が2千坪ほど沈下した。

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番号 222
西暦 1841/ 11/ 3
和暦 (天保 12 9 20)
震央・M N33.2° E132.4° (M6)
記事 宇和島:宇和島城の塀・壁など破損。四国・中国の西部と筑後で有感。

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番号 223
西暦 1842/ 4/ 17
和暦 (天保 13 3 7)
記事 琉球:宮古島などで5日頃から地震、7日の地震で石墻が多く崩れた。14日まで数十回の地震があった。

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番号 224
西暦 1843/ 3/ 9
和暦 (天保 14 2 9)
震央・M N35.35° E139.1° M6.5
記事 足柄・御殿場:足柄萱沼村で石垣・堤の崩れ多く、御殿場の近くや津久井でも被害があった。

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番号 225
西暦 1843/ 4/ 25
和暦 (天保 14 3 26)
震央・M N42.0° E146.0° (M7.5)
記事 釧路・根室:厚岸国泰寺で被害があった。津波があり、全体で死46。家屋破壊75。八戸にも津波。松前・津軽で強く感じ、江戸でも有感。[2]

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番号 226
西暦 1844/ 8/ 8
和暦 (弘化 1 6 25)
震央・M N33.0° E131.3°
記事 肥後北部:28日まで地震が多く、久住北里で特に強かった。杖立村で落石により百姓屋崩れる。

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番号 227
西暦 1847/ 2/ 15
和暦 (弘化 4 1 1)
記事 越後高田:諸所破損、長屋も破損。

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番号 228
西暦 1847/ 5/ 8
和暦 (弘化 4 3 24)
震央・M N36.7° E138.2° M7.4
記事 信濃北部および越後西部:『善光寺地震』:被害範囲は高田から松本に至る地域で、特に水内・更級両郡の被害が最大だった。松代領で潰家9550、死2695、飯山領で潰家1977、死586、善光寺領で潰家2285、死2486など。全国からの善光寺の参詣者7千~8千のうち、生き残ったもの約1割という。山地で山崩れが多く、松代領では4万ヶ所以上。虚空蔵山が崩れて犀川をせき止め、上流は湖となったが、4月13日に決壊して流出家屋810、流死100余。

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番号 229
西暦 1847/ 5/ 13
和暦 (弘化 4 3 29)
震央・M N37.2° E138.3° M6½
記事 越後頚城郡:善光寺地震の被害と区別できないところが多い。潰家・大破ならびに死傷があった。地割れを生じ、泥を噴出し、田畑が埋没したところもあった。

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番号 230
西暦 1848/ 1/ 10
和暦 (弘化 4 12 5)
震央・M N33.2° E130.4° M5.9
記事 筑後:柳川で家屋の倒潰があった。

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番号 231
西暦 1848/ 1/ 13
和暦 (弘化 4 12 8)
震央・M N40.7° E140.6° M6.0
記事 津軽:弘前の城内・城下で被害。黒石・猿賀(弘前の北東)辺で特に強く、潰家があったらしい。

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番号 232
西暦 1848/ 1/ 25
和暦 (弘化 4 12 20)
震央・M N32.85° E130.65°
記事 熊本:熊本城内で石垣を損じ、座敷などの壁が落ちた。

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番号 233
西暦 1853/ 1/ 26
和暦 (嘉永 5 12 17)
震央・M N36.6° E138.1° M6.5
記事 信濃北部:善光寺で被害。長野市中で下屋の破壊があった。松代領で潰家23。

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番号 234
西暦 1853/ 3/ 11
和暦 (嘉永 6 2 2)
震央・M N35.3° E139.15° M6.7
記事 小田原付近:小田原で被害が大きく、城内で潰れや大破が多かった。小田原領で潰家1千余、死23。山崩れが多かった。

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番号 235
西暦 1854/ 7/ 9
和暦 (安政 1 6 15)
震央・M N34.75° E136.0° M7¼
記事 伊賀・伊勢・大和および隣国:12日頃から前震があった。上野付近で潰家2千余、死約600、奈良で潰家400以上、死300余など、全体で死者は1500を越える。上野の北方で西南西-東北東方向の断層を生じ、南側の1kmの地域が最大1.5m 相対的に沈下した。木津川断層の活動であろう。

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番号 236
西暦 1854/ 8/ 28
和暦 (安政 1 閏7 5)
震央・M N40.6° E141.6° M6.5
記事 陸奥:三戸・八戸で被害。地割れがあった。

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番号 237
西暦 1854/ 12/ 23
和暦 (安政 1 11 4)
震央・M N34.0° E137.8° M8.4
記事 東海・東山・南海諸道:『安政東海地震』:被害は関東から近畿に及び、特に沼津から伊勢湾にかけての海岸がひどかった。津波が房総から土佐までの沿岸を襲い、被害をさらに大きくした。この地震による居宅の潰・焼失は約3万軒、死者は2千~3千人と思われる。沿岸では著しい地殻変動が認められた。地殻変動や津波の解析から、震源域が駿河湾深くまで入り込んでいた可能性が指摘されており、すでに100年以上経過していることから、次の東海地震の発生が心配されている。[3]

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番号 238
西暦 1854/ 12/ 24
和暦 (安政 1 11 5)
震央・M N33.0° E135.0° M8.4
記事 畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道:『安政南海地震』:東海地震の32時間後に発生、近畿付近では二つの地震の被害をはっきりとは区別できない。被害地域は中部から九州に及ぶ。津波が大きく、波高は串本で15m、久礼で16m、種崎で11mなど。地震と津波の被害の区別が難しい。死者数千。室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸・串本で約1m隆起、甲浦・加太で約1m沈下した。[4]

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番号 239
西暦 1854/ 12/ 26
和暦 (安政 1 11 7)
震央・M N33¼° E132.0° (M7.3~7.5)
記事 伊予西部・豊後:南海地震の被害と区別が難しい。伊予大洲・吉田で潰家があった。鶴崎で倒れ屋敷100、土佐でも強く感じた。

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番号 240
西暦 1855/ 3/ 15
和暦 (安政 2 1 27)
記事 遠江・駿河:大井川の堤揺れ込み、焼津で古い割れ目から水が噴出。

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番号 241
西暦 1855/ 3/ 18
和暦 (安政 2 2 1)
震央・M N36.25° E136.9° M6¾
記事 飛騨白川・金沢:野谷村で寺・民家に破損があった。保木脇村で民家2軒が山抜けのため潰れ、死12。金沢城で石垣など破損。

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番号 242
西暦 1855/ 8/ 16
和暦 (安政 2 7 4)
記事 米子:城内で所々崩れ、地割れもあった。

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番号 243
西暦 1855/ 9/ 13
和暦 (安政 2 8 3)
震央・M N38.1° E142.0° M7¼
記事 陸前:仙台で屋敷の石垣、堂寺の石塔・灯篭崩れる。山形県・岩手県南部・新潟県分水町・常陸太田で有感。

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番号 244
西暦 1855/ 11/ 7
和暦 (安政 2 9 28)
震央・M N34.5° E137.75° (M7~7.5)
記事 遠州灘:前年の東海地震の最大余震。掛塚・下前野・袋井・掛川辺がひどく、ほとんど全滅。死者があった。津波があった。

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番号 245
西暦 1855/ 11/ 11
和暦 (安政 2 10 2)
震央・M N35.65° E139.8° M6.9
記事 江戸および付近:『江戸地震』:下町で特に被害が大きかった。地震後30余ヶ所から出火、焼失面積は 2.2kmにおよんだ。江戸町方の被害は、潰れ焼失1万4千余、死4千余。瓦版が多数発行された。

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番号 246
西暦 1856/ 8/ 23
和暦 (安政 3 7 23)
震央・M N41.0° E142¼° (M7.5)
記事 日高・胆振・渡島・津軽・南部:震害は少なかったが、津波が三陸及び北海道の南岸を襲った。南部藩で流失93、潰106、溺死26、八戸藩でも死3など。余震が多かった。1968年十勝沖地震に津波の様子がよく似ており、もう少し海溝寄りの地震かもしれない。[2]

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番号 247
西暦 1856/ 11/ 4
和暦 (安政 3 10 7)
震央・M N35.7° E139.5° (M6~6.5)
記事 江戸・所沢:江戸で壁の剥落や積瓦の落下があり、傷23。粂川で家屋倒潰15という。

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番号 248
西暦 1857/ 7/ 8
和暦 (安政 4 閏5 17)
震央・M N34.4° E131.4° (M6)
記事 萩:城内で石垣などに小被害。市中でも小被害があった。

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番号 249
西暦 1857/ 7/ 14
和暦 (安政 4 閏5 23)
震央・M N34.8° E138.2° M6¼
記事 駿河:田中城内で被害。藤枝・静岡で強くゆれ、相良で人家が倒れたという。

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番号 250
西暦 1857/ 10/ 12
和暦 (安政 4 8 25)
震央・M N34.0° E132.5° M7¼
記事 伊予・安芸:今治で城内破損、郷町で潰家3、死1。宇和島・松山・広島などで被害。郡中で死4。

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番号 251
西暦 1858/ 4/ 9
和暦 (安政 5 2 26)
震央・M N36.4° E137.2° (M7.0~7.1)
記事 飛騨・越中・加賀・越前:飛騨北部・越中で被害が大きく、飛騨で潰家319、死203。山崩れも多く、常願寺川の上流が堰止められ、後に決壊して流出および潰家1600余、溺死140の被害を出した。跡津川断層の運動(右横ずれ)によると考えられる。

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番号 252
西暦 1858/ 4/ 9
和暦 (安政 5 2 26)
記事 丹後宮津:地割れを生じ、家屋が大破した。

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番号 253
西暦 1858/ 4/ 23
和暦 (安政 5 3 10)
震央・M N36.6° E137.9° M5.7
記事 信濃北西部:大町組で家・蔵が潰れ、山崩れがあった。この地震が引金で、2月26日の地震で堰止められたところが崩れたと考えられる。

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番号 254
西暦 1858/ 7/ 8
和暦 (安政 5 5 28)
震央・M N40.75° E142.0° (M7~7.5)
記事 八戸・三戸:八戸・三戸で土蔵・堤水門・橋など破損。青森・田名部・鯵ヶ沢で強く感じた。

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番号 255
西暦 1858/ 8/ 24
和暦 (安政 5 7 16)
記事 紀伊:田辺で瓦が落ち、壁が崩れた家があった。

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番号 256
西暦 1858/ 9/ 29
和暦 (安政 5 8 23)
震央・M N40.9° E140.8° (M6)
記事 青森:安方町で米蔵潰れる。狩場沢村(現平内町)で道路に亀裂があった。

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番号 257
西暦 1859/ 1/ 5
和暦 (安政 5 12 2)
震央・M N34.8° E131.9° M6.2
記事 石見:島根県一帯で強く、波佐村で山崩れがあった。周布村・美濃村・下道川村などで被害。

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番号 258
西暦 1859/ 1/ 11
和暦 (安政 5 12 8)
震央・M N35.9° E139.7° (M6)
記事 岩槻:城の本丸櫓・多門その他破損。江戸・佐野・鹿沼で有感。

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番号 259
西暦 1859/ 10/ 4
和暦 (安政 6 9 9)
震央・M N34.5° E132.0° (M6~6.5)
記事 石見:島根県那賀郡で強く、周布村でも潰家や地割れがあった。広島城内でも被害があった。

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番号 260
西暦 1861/ 10/ 21
和暦 (文久 1 9 18)
震央・M N38.55° E141.15° M6.4
記事 陸中・陸前・磐城:陸前の遠田・志田・登米・桃生の各郡で特に被害が多く、潰家・死傷があった。江戸・新潟県分水町・長野まで有感。

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番号 261
西暦 1864/ 3/ 6
和暦 (元治 1 1 28)
震央・M (M6¼)
記事 播磨・丹波:加古川上流の杉原谷で家屋が多く破壊したという。

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番号 262
西暦 1866/ 11/ 24
和暦 (慶応 2 10 18)
記事 銚子:銚子市後飯町の浅間社の石の鳥居倒れる。日光・相馬・成田・江戸・干潟で有感。

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番号 263
西暦 1870/ 5/ 12
和暦 (明治 3 4 12)
震央・M N35.25° E139.1° (M6~6.5)
記事 小田原:小田原城内の所々で壁などが破損した。町田・江戸・塩山・馬籠・分水町で有感。

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番号 264
西暦 1872/ 3/ 14
和暦 (明治 5 2 6)
震央・M N35.15° E132.1° M7.1
記事 石見・出雲:『浜田地震』:1週間ほど前から鳴動、当日には前震もあった。全体で全潰約5千、死552。特に石見東部で被害が多かった。海岸沿いに数尺の隆起・沈降がみられ、小津波があった。[0]

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番号 902
西暦 1877/ 5/ 10
和暦 (明治 10)
記事 太平洋沿岸:チリのイキケ沖の地震による津波。波高は釜石で3mなど。函館などで被害。房総半島で死者があった。

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番号 265
西暦 1880/ 2/ 22
和暦 (明治 13)
震央・M N35.4° E139.75° (M5.5~6)
記事 横浜:横浜で煙突の破損が多く、家屋の壁が落ちた。東京の被害は軽かった。この地震を機として日本地震学会が生まれた。

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番号 266
西暦 1881/ 10/ 25
和暦 (明治 14)
震央・M N43.3° E147.3° (M7)
記事 北海道:国後島泊湊で板蔵など倒れ、または大破した。津軽でも強く感じた。

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番号 267
西暦 1882/ 6/ 24
和暦 (明治 15)
記事 高知市付近:市中で壁が落ち、板塀が倒れ、石灯篭の頭が落ちるなどの被害があった。

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番号 268
西暦 1884/ 10/ 15
和暦 (明治 17)
震央・M N35.7° E139.75°
記事 東京付近:多数の煙突が倒れ、煉瓦作りの壁に亀裂が入った。柱時計の70~80%が止まった。

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番号 269
西暦 1886/ 7/ 23
和暦 (明治 19)
震央・M N37.1° E138.5° M5.3
記事 信越国境:家屋倒壊、道路・石垣破損、山崩れなどの小被害。上高井地方で前震があった。

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番号 270
西暦 1889/ 7/ 28
和暦 (明治 22)
震央・M N32.8° E130.7° M6.3
記事 熊本:熊本市を中心に半径約20kmの範囲に被害があり、県全体で全壊239、死20。橋の落下や破損が多かった。

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番号 271
西暦 1890/ 1/ 7
和暦 (明治 23)
震央・M N36.5° E138.0° M6.2
記事 犀川流域:東筑摩・北安曇・更科・上水内の各郡で家屋の小破、山崩れ、道路破損などがあった。

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番号 272
西暦 1890/ 4/ 16
和暦 (明治 23)
震央・M N34.2° E139.3° M6.8
記事 三宅島付近:三宅島で海岸が崩れ、道路を埋め、亀裂を生じた。

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番号 273
西暦 1891/ 10/ 28
和暦 (明治 24)
震央・M N35.6° E136.6° M8.0
記事 愛知県・岐阜県:『濃尾地震』:仙台以南の全国で地震を感じた。わが国の内陸地震としては最大のもの。建物全壊14万余、半壊8万余、死7273、山崩れ1万余。根尾谷を通る大断層を生じ、水鳥で上下に6m、水平に2mずれた。1892年1月3日、9月7日、94年1月10日の余震でも家屋破損などの被害があった。

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番号 274
西暦 1892/ 6/ 3
和暦 (明治 25)
震央・M N35.7° E139.9° M6.2
記事 東京湾北部:東京で家屋破損5、土蔵破損24、その他の小被害。

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番号 275
西暦 1892/ 12/ 9
和暦 (明治 25)
震央・M N37.1° E136.7° M6.4
記事 能登:家屋・土蔵の破損があった。11日にも同程度の地震があり、羽咋郡で全壊2、死1。[0]

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番号 276
西暦 1893/ 6/ 4
和暦 (明治 26)
震央・M N43½° E148° M7¾
記事 千島南部:エトロフ島で震動が強く、岩石の崩壊があった。津波はシコタン島で2.5mなど。[1]

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番号 277
西暦 1893/ 9/ 7
和暦 (明治 26)
震央・M N31.4° E130.5° M5.3
記事 鹿児島県:知覧村付近で強く、家屋・土蔵・石垣・堤防など破損。近くの村々でも被害。

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番号 278
西暦 1894/ 3/ 22
和暦 (明治 27)
震央・M N42½° E146° M7.9
記事 根室南西沖:根室・厚岸で家屋・土蔵に被害。津波は宮古4m、大船渡1.5mなど。[2]

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番号 279
西暦 1894/ 6/ 20
和暦 (明治 27)
震央・M N35.7° E139.8° M7.0
記事 東京湾北部:青森から中国・四国地方まで地震を感じた。東京・横浜の被害が大きかった。神田・本所・深川で全半壊多く、東京で死24。川崎・横浜で死7。鎌倉・浦和方面にも被害があった。

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番号 280
西暦 1894/ 8/ 8
和暦 (明治 27)
震央・M N32.8° E131.0° M6.3
記事 熊本県中部:阿蘇郡で家屋・土蔵の破損22、山崩れ18。その他でも小被害があった。

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番号 281
西暦 1894/ 10/ 22
和暦 (明治 27)
震央・M N38.9° E139.9° M7.0
記事 庄内平野:『庄内地震』被害は主として庄内平野に集中した。山形県下で全壊3858、半壊2397、焼失2148、死726。

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番号 282
西暦 1895/ 1/ 18
和暦 (明治 28)
震央・M N36.1° E140.4° M7.2
記事 霞ヶ浦付近:北海道・四国・中国の一部まで地震を感じた。被害範囲は関東東半分。全壊47、死9。

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番号 283
西暦 1895/ 8/ 27
和暦 (明治 28)
震央・M N32.8° E131.0° M6.3
記事 熊本:阿蘇郡山西村で家屋・土蔵破損400、その他の被害が多かった。

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番号 284
西暦 1896/ 1/ 9
和暦 (明治 29)
震央・M N36½° E141° M7.0
記事 鹿島灘:那珂川・久慈川河口で家屋・土蔵が小破した。[0]

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番号 285
西暦 1896/ 4/ 2
和暦 (明治 29)
震央・M N37.5° E137.3° M5.7
記事 能登半島:蛸島村で土蔵倒壊2、家屋破損15。禄剛崎燈台破損。

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番号 286
西暦 1896/ 6/ 15
和暦 (明治 29)
震央・M N39½° E144° M8H
記事 三陸沖:『明治三陸地震津波』:震害はない。津波が北海道より牡鹿半島にいたる海岸に襲来し、死者は青森343、宮城3452、北海道6、岩手18158。家屋流失全半壊1万以上、船の被害約7千。波高は、吉浜24.4m、綾里38.2m、田老14.6m など。津波はハワイやカリフォルニアに達した。Mは津波を考慮したもの。[4]

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番号 287
西暦 1896/ 8/ 31
和暦 (明治 29)
震央・M N39.5° E140.7° M7.2
記事 秋田・岩手県境:『陸羽地震』:秋田県の仙北郡・平鹿郡、岩手県の西和賀郡・稗貫郡で被害が大きく、両県で全壊5792、死209。川舟断層・千屋断層を生じた。

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番号 288
西暦 1897/ 1/ 17
和暦 (明治 30)
震央・M N36.7° E138.3° M5.2
記事 長野県北部:4月30日再震。須坂・上高井地方で家屋破損など小被害があった。7月まで240回以上。群発地震。

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番号 289
西暦 1897/ 2/ 20
和暦 (明治 30)
震央・M N38.1° E141.9° M7.4
記事 仙台沖:岩手・山形・宮城・福島で小規模の被害。一ノ関で家屋破損72など。[0]

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番号 290
西暦 1897/ 8/ 5
和暦 (明治 30)
震央・M N38.3° E143.3° M7.7
記事 仙台沖:津波により三陸沿岸に小被害。津波の高さは盛町で3m、釜石で1.2m。[1]

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番号 291
西暦 1898/ 4/ 3
和暦 (明治 31)
震央・M N34.6° E131.2° M6.2
記事 山口県見島:見島西部で強く、神社仏閣の損傷・倒壊、石垣の崩壊があった。

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番号 292
西暦 1898/ 4/ 23
和暦 (明治 31)
震央・M N38.6° E142.0° M7.2
記事 宮城県沖:岩手・宮城・福島・青森の各県で小被害。小津波があった。従来、岩手県沖とされていたもの。[-1]

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番号 293
西暦 1898/ 5/ 26
和暦 (明治 31)
震央・M N37.0° E138.9° M6.1
記事 新潟県六日町付近:家屋に小被害があり、田畑の亀裂・噴砂があった。

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番号 294
西暦 1898/ 8/ 10
和暦 (明治 31)
震央・M N33.6° E130.2° M6.0
記事 福岡市付近:糸島郡で家屋破損73、土蔵破損13、神社破損8など。12日に再び地震があり、家屋などが小破した。

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番号 295
西暦 1898/ 9/ 1
和暦 (明治 31)
震央・M N24.5° E124.7° M7
記事 八重山群島:宮古・石垣両島で家屋半壊2、山崩れ、石垣の崩壊があった。

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番号 296
西暦 1899/ 3/ 7
和暦 (明治 32)
震央・M N34.1° E136.1° M7.0
記事 紀伊半島南東部:奈良県吉野郡・三重県南牟婁郡で被害が大きく、木ノ本・尾鷲で死7、全壊35、山崩れ無数。大阪・奈良で煉瓦煙突の破損が多かった。

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番号 297
西暦 1899/ 11/ 25
和暦 (明治 32)
震央・M (03h 43m) N31.9° E132.0° M7.1
(03h 55m) N32.7° E132.3° M6.9
記事 日向灘:宮崎・大分で家屋が小破し、土蔵が倒壊した。大分では2回目の方が強かった。[-1]

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番号 298
西暦 1900/ 3/ 22
和暦 (明治 33)
震央・M N35.8° E136.2° M5.8
記事 福井県鯖江付近:鯖江町・吉田村で被害が最も多かった。県全体で家屋全壊2、半壊10、破損488など。

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番号 299
西暦 1900/ 5/ 12
和暦 (明治 33)
震央・M N38.7° E141.1° M7.0
記事 宮城県北部:遠田郡で最も激しく、県全体で死傷17、家屋全壊44、半壊48、破損1474。

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番号 300
西暦 1900/ 11/ 5
和暦 (明治 33)
震央・M N33.9° E139.4° M6.6
記事 御蔵島・三宅島付近:4日より前震があった。御蔵島・三宅島・神津島で家屋半壊や海岸の崩壊があった。

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